統計学は気休めか

たとえば、「サイコロの1の目が出る確率は1/6で、2回続けて1の目が出る確率は1/36である」と言われても、そもそも未来に生じることは絶対的に未知なわけである。だから、確率的には限りなくゼロに近いであろうはずの「スペースシャトル爆発」といったイベントが実際に生じてしまう。
100%と0%以外の数値に意味はあるのか。不確実性の程度の差とは一体何を意味しているのか。厳密に確率を計算する、ということは自己撞着ではないのか。
統計学というのは科学的な衣装を纏った「占い」の一ジャンルであり、「Aプランだと1/10、Bプランだと1/1000の確率で失敗します」というお告げを聞けば安心してBプランを選べる、といった具合に意思決定の際の気休め(あるいは責任転嫁)のための道具に過ぎないのではないか。
...と書いたところで、学問はすべて不確実な未来をコントロールしたいという欲望の産物であることに気が付いた。たとえ気休めであってもそれはそれで結構なのかも。